変わってる、おかしいと自認するのが恥ずかしくて無理

絵が下手である。下手というのは評価がされないということも含めてそう呼ぶ。けれども他人が一生懸命描いた絵を、下手だと切り捨てるにはあまりにも痛みを伴うとおもった。ということはわたしの絵もそうだろう。でも評価はされない。それすなわち下手である。イコールにならない。建前と本音がかみ合わない。うまく飲みこめない。

絵が下手なときは下手な部分があまりわからない。足らないときっていうのは、いつもそうだ。不足がきっちり補われて、溢れて溺れるくらいになったとき、ああ足りていなかったな、原因はこれだということがわかる。さんざん経験してきたことだ。
だから評価がされない今というのは、何か足りていない状況なんだとはおもうんだけど、今はそれを見極める目がまだ死んでいるので、結果として原因もわからない。できることをやるしかない。途方もなくて、くよくよする。万能感に脳みそがやられているだけなんじゃないのかとかおもう。

あとシンプルに絵、下手じゃないですよと言われたことがないので、やはり下手なんだとおもう。下手さが自分で見えてないのだ。それはあんまりにも恥ずかしいことだ。

わたしの欲望は"気づくのはわずかな数だとしても強烈な「わかる」を届けたい"ということで、広く浅く広く広大に共感を得ることではなくて、考えの底にはいつも"気づくのはわずかな数だとしても強烈な「わかる」を届けたい"という想いがにじみ出すぎていて、だから評価がされないのかとか、とんちんかんなことを考えたりもする。
分かりづらい、伝わらない、共感が得られない、それすなわち下手なのだと、じぶんの劣っている部分にばかり目を向けていると世間を憎むことになるからやめたいけれど今は結構そのことだけに目が向いてる。春だからなのもある。

わたしは子どものころから、大人たちに対して、こんなにひどいことをし続けて、わたしが死んだあとにじぶんの無能さを恥じ後悔すればいい、とおもっている。いた。ていうか、いる。未だに、いる。そういう気持ちが強い。わたしはもう不惑も近いが、いまだにその気持ちを持ったまま絵を描いたり日々生きたりしていて、その気持ちがにじみ出てバレているんじゃないかとおもっている。普段はわたしをないがしろにして、わたしが実際死んだあとに全員後悔しろ、みたいな気持ちが、バレているんだ。だから見返したいのか? 残念だけれど見返せない。何をしたって評価は来ない。わたしは他人の心に響くものなんて一生描けないのかもしれない。そしてこういうことは、実際に成功しているひとが言っているのがかっこよくコンテンツになる文化だ。わたしを見つけて評価してくれる人なんて本当にいるのか? 強烈な「わかる」なんて、存在するのか? 答えは否だ。わたしはすべての人類をうっすら愛しているけれど、普通の人はそうでもないっぽいのだ。
もはや全部が終わっているし閉じている。生まれて死ぬまでずっと惨めだ。

ひとりで何でもできそう。何が起きても平気そう。そうやって言われるのがずっと嫌だったしいまだに言われるしすごく嫌だ。全然大丈夫じゃないしまったくひとりで平気ではない。何が起きても何とかするであろうけれどそれを他人に言われると傷つく。できることならやりたくないからだ。何にもせずに泣いていたら解決してくれる人がいましたみたいなのがいいに決まっているのだ。生まれてから人生がずっとそうだ。やりたくなのにやらないといけなくてずっとやっている。選択肢がほかにないのだ。選択肢を選ばないという選択肢は死に直結した。死ぬのは怖かった、痛いのが嫌だった、痛いのはとにかく嫌いで、一瞬で死ねるなら全然いいけれど、そうじゃないこともよく知っている。何にもできないしやりたくない。絵くらい評価してくれてもいいじゃないか←結局この根性がダメなんだけど、でも感じたその気持ちは大切にしないと絶対にダメ。見てみぬふりをすると、前に進めないから。見てみぬふりして進めるならいいけど、わたしはそうじゃないから。
わたしほど不幸な人はそうそういなくて、昔はそうおもうことを恥だと感じていたしよくある話だとおもっていた。いまもそうおもいたい。信じたい。子供が多かった時代でかつ貧困層での日常、よくある話のはずだとおもいたい。でももう目を瞑っているのも限界だ、わたしはかなりおかしいしわたしの生育環境も異常だ。そしてわたしがここまで社会に適応しなおせたことも、奇跡に近い。そのことをいい加減に認めないと、自己承認をきちんとしないと、一生このチラッチラッがやめられず、一生言葉の端々にわたしを認めろ後悔しろが滲み出続けて(敏感な人は「お前が(わたしが)勝手に認めろよ!」と感じるに決まってる)手に入るはずのものも手に入らないままなのだ。