誰のためにそれをやるのか

パースが結構ついた人物画ってすごくうまく見えるしスタイリッシュでかっこいいんだけど、ああいうのが描けるようになりたくて、というようなことを他人に話したとき「あれはうまい人しか描けないからできるようになるわけがない」と言われたことがあったんだけど(わたしに言ったというより自分のことを話したって感じだった)、
でも絵のうまい人とその他の人の違いって絵をたくさん描いたかどうかなわけで、絵のうまい人くらいたくさん絵を描けば、パースが結構ついた人物画って全然描けるようになるんだよね。絵の描きかたっていうのは研究してくれてる人が山ほどいてしかも無料で共有されているようなこともあるし、あとはもう描くだけなんだよね。

練習をしないことできないことそのものを「絵が下手だ」と表現することがあるけど、こんがらがるのでやめてほしい。味を薄められるとこんがらがる。
描けるようにならないのか、描けるようになろうとしているのか、描けるようになろうとしてできているのかの違いしかない。

でわたしは結局それを描けるようになったのかって話なんだけど、たくさん描いたらある程度やれるようになってきた。遅くても、今年の冬頃には結構自由にイケるようになるんじゃないかとおもう。

こういう話題って辟易される。たくさん努力をして、なりたい自分になれた、という話題は、もともと持たない人や普通から外れた人がものすごくおいし~~い味つけをして初めてようやく表舞台にあがれる。わきまえているその人を、みんなが自分と比べて安心して上から褒めたいからだ。

だからそりゃみんな対立煽りなんかをするよなあ、とも感じる。簡単に人が集まるし共感を得られる。だって、みんな怒りたいし人よりマシだとおもいたいし人より悪いと思いたいし誰かに物申したいから。その根にあるのは自分のやるべきことから目をそらしていたいから、という想いだ。もちろん、わたしにだってたくさんある。

あとそういうゲームに疲れていたり、目標に向かっている人はわざわざそんなこと他所に漏らさず前しか視てないので、結局のところ悪いものだけが残っている。わたしが好きなものは、すみっこにわずかに存在していて、見つけるのが難しい。インターネットの現在。ここはかつての現実だ。それが辛くてインターネットに逃げたのに、いつの間にか現実とインターネットが逆になってしまった。ふしぎでしかたがない。

この文脈の流れの根本にあるのが、人間
「やりたいことをやる前に誰かにどう思われるか考えてしまってできない」という人と、
「やりたいからやりたいことをやる」という人がいるということだ。

後者は、モテる(モテ論が流行っているので無理やりつなげた。いや、でもモテるよね。どう考えたってかっこいいもん)。

ただの日記

土曜の朝は若くて美しい女を駅まで送って、民家がやっている八百屋で野菜を買う。

きょうは暇を持て余していたので、マツキヨに行ったりスーパーに行ったりもした。朝イチでスーパーにゆくと、鮮魚コーナーで魚のあらが投げ売られているので最高である。鰤のあらを買った。あら汁にする。

帰り道で知らないおばあに話しかけられたので話した。雨はいま、降ってますかね? いやわかんないですね、降ってるかも? 降ってないかも? 結局降ってなかった。道路の黒色が強くて、雨が降っているような見た目をしていた。

誤って切って保管していたニラが絶望的な匂いを発しているので、帰ってからお好み焼きにした。いま我が家にはおからパウダーがある。最高だ。おからパウダーは北CITYで買った。若くて美しい女が探して買ってきた。北CITYで。民家の八百屋で山芋を買っていたが、するのがめんどうなので入れなかった。

北CITY。

毎朝この芝桜が電車から見えるのだが、あまりにかわいくてわらってしまう。

 

わたしはなんで埼玉に住んでるんだろう。
なんで埼玉に住んでいるのかわからない。10年ほど前、わたしには家がなく、長く乗れる在来線に繰り返し乗り、睡眠をとるという方法をとっていた(Suicaとか切符の関係で、今はもうそんな風にはできないとおもうが)。
はじめは山手線で寝ていたのだが、山手線は騒がしくて眠りづらいのだ。比べて京浜東北線は始発から終点までが長いことに気がつき、京浜東北線で眠ることにした。やがて家を借りる際には、京浜東北線沿いに住んだ。京浜東北線に馴染みがあった。たくさん眠らせてくれてありがとうと言った感じだ。


別に外で眠ってもよかったのだけれど、女だからか道端で寝ていたり座り込んだりしていると、かなりの確率で通報されるのだ。あと駐車場とか銀行の警備員のおっちゃんが話しかけてくる(通報までしない人々が彼らに人が倒れてますとか言うんだとおもう)、かなり面倒だった。好意でやってるのか知らんが、放っといてほしかった。

 

わたしは当時、とにかく仕事を選ばず朝昼晩無休で働いて自分で自分をすべてなんとかしたが、行政に頼ってもよかったのだろうな。というか、頼るべきだった。わたしは体力があったり、生まれ育ちがもっとえぐかったのでなんとかなったみたいなところがあるが、こんなことはできない人のほうがまあ多いだろうとおもう。
けれども、行政に頼ったところで「あなたはまだ若いので働けるはずです風俗でもなんでも仕事を選ばずにまずは働け!」と怒鳴られることを知っていたので、頼らなかった。
あのときわたしを門前払いした役所の人間の目的は、生活保護をどのような誰にも、人生で一度も受給させないというものだったのだろうし、その目論見通り、わたしは仕事を選ばなかったし、なんだってやったし、飢えながら季節問わず道端で眠ることもやった。
おそらく、そんなことはやらなくてもよかった。
役所の人間の仕事は、生活保護を長きにわたり誰にも受給させないことだと、わたしはよく知っている。

 

こういうことを言っていると、役所で働いている友人ができたときなどに非常に困るので、やめたほうがいいです。ルサンチマンライフハック。わたしは一周回ったので、逆にそういう風にするのをやめたけど。なぜならまともな人間なら、わたしを足蹴にした役所の人間と、自分を混同したりはしないので。
でも、世の中には混同して悲しむ人間のほうが多い。どうしてかはわからない。それで問題なく生きていられるからだろうけれど、こっちからしてみたら、はっきり言ってお公家様かよとおもう。お公家様なら、哀れなわたしに和歌を詠んでくれてもいいだろうに。

 

それから、ひどい目に遭っても強引に自分の力でなんとかして・できてしまうと、自立しすぎてしまうのか、苦しみを他人にも強要してしまう人間になるので、他人を助けないしその発想がない人間が爆誕してしまう。
わたしは途中でそれが辛くなって無理やりそこから抜け出したけど、そのままの人だってきっと多いはず。
だから他人を気軽に助けたり助けられたりする世の中のほうが絶対にいいはずなのだが、お公家様がたにはあんまり伝わらない。なんでだろうね。中卒のホームレスをやっていた人間よりも、はるかに賢く、いい教育を受けいい環境で生きてきたはずなのにね。

 

 

おからパウダー入りのお好み焼きは、食感がいつものお好み焼きと違う。焼けていてみずみずしいのに、粉っぽい。おいしい。

 

問題が起これば本を読む、先人がその解決策を探ってくれているからだ

若くて美しい女が悩んでいる。別業種に転職をして右も左もわからんなかで己の問題にぶち当たり迷い迷って毎晩号泣している。かわいそうだ。

若くて美しい女は年齢が30よりちょっと前で、抱えている苦しみはわたしにも覚えがある。そのころはちょうど、いっぺん自分の価値観を全部ひっくり返さないとやっていけなくなる時期だ。それが辛いか辛くないかは個人の差があるとおもう。わたしには創作があったから乗り越えられた。若くて美しい女は創作をしない。読む側だ。若くて美しい女は以前、わたしの創作の読者だった。

名が売れていなかろうと一見胡散臭かろうと信頼できる人間というのは唯一無二であるし、たくさんいる。たくさんいて、しかもラッキーな場合、本をたくさん書いていたりもする。
というわけでDMMのクーポンを使って、信頼できる人間の書いた本を、持っていないものをある分だけ買った。
(一緒に青い脂も買った。妖蝶キリコの特別編のようでめちゃくちゃに面白い。ジャンルがわからないので探しようがないのだけれど絶対ジャンルとして確立しているだろうのでほかのこういう本も探してゆきたい)

本は高価だ。というより、給料が安い。どちらかが補填されれば簡単に元の売り上げを取り戻すとおもうのだけれどどうだろう。本は死んでないし出版業界も死んでない。音楽業界も死んでない。エンタメ業界も死んでない。ただただみんな金がないだけだ。欲しくても手にできないのだ。それを無視して消費者も出版社も音楽会社も(音楽会社って何? 語彙なし)エンタメ業界も自己責任という風に報道していたら世間は今の通りになって当たり前だとおもうのだけれど、報道をしている人や世の中をつくっている人たちは恵まれていて選ばれていて正しい人間であるはずなのに、この体たらくでものすごいなと感じる。どうしようもないという気持ちしかない。でも本当は業界のほうにはきちんと金が回っていることはわかっている。底のほうにいる損くじを引くことを厭わない人たちが無理をしているからである。どうしようもないのでただただ悲しい。本は高い。給料が安い。
というような話を本を買いながら若くて美しい女とした。

本を読んで若くて美しい女が回復するかはわからない。わたしは特定の本を読んでここ3年ほど自分の芯を補強した。いろんなことが平気になった。最後まで平気ではなかったTwitterは先月棄てた。手放した。うまくやった、今はつらくない。天啓のような母からの電話で、人生において最もムダだった生活習慣も手放した。

うさんくさいおっさんの書いた本を山ほど読んで時には会いにゆき理解できた部分をノートに書き散らかしてわたしはどう決め何を選びどのようにしていくかを無限に書いていた。絵の練習の隙間にずっと書いて決めてその通りにしてきた。それがなければおそらくTwitterにはとっくに復帰してまた苦しんでいて、母からの電話を真に受けて再びATMへと逆戻りしていただろうとおもう。

いま最も辛いことは社長が自席で煙草を喫うことだ。煙たくて気分が悪くなって眸が痛くなって涙が出る。多分わたしが嫌いな銘柄の煙草なんだとおもう。ペシェとかピアニッシモとかキャスターとか辛くないもん。何喫ってるか知らないけど。このことだってこれまではそこまで辛くなかった。辛さが何個か消えてゆき、そういえば煙草メッチャきっついやんやめろやとようやく気づいたような感じである。

苦しみはまっさらになったりしない。形を変えてそばにいるが菓子を辞められず医者に自死をほのめかすより母のATMに戻り憎しみと愛情の区別がつかないままよりも社長の煙草が臭くて死にそうという苦しみのほうが幾分か治安がいい。あとメチャメチャに我慢できなくなったら多分言う。死んでくださいかわたしが死にましょうかと言うので多分そこは大丈夫。
本を読んで若くて美しい女が回復するといい。

ついでに筍を5キロ買った。筍は買うものではないはずなのだがもう我慢ができなかった。届くのが楽しみで仕方がない。

ただの日記

若くて美しい女が転職した。ので休みが合わなくなった。突然時間を持て余している。
若くて美しい女には夢があってそれをかなえるために国家資格を取り4月から転職した。彼女の母親が同じ道で成功しており、それを追う形になる。わたしは若くて美しい女を尊敬している。

近所の民家で野菜を売っている。育てたものをパッケージングして売っているだけなのだが新鮮で量がどうかしているので毎朝楽しみにしている。きょうはレタスと春菊とほうれん草を買った。周辺には地域猫がおり最高のロケーションだ。みんな、お耳がそれぞれ桜の花びらのかたちをしている。どの子もむっちりぼてぼてしていてかわいい。

メンズノンノを買いに行く。推しの人がラスト掲載だからである。卒業とかしてほしくないんだけど、するらしい。在籍だけして載せないみたいな感じでいいじゃんとおもうんだけど、卒業するらしい。なんでやねん。

わたしは女の子みたいな男の子が好きだ。こんなこと言ったら怒られるかもしれないが、世界中女の子だらけになってくれたらうれしい。男の子みたいな女の子も好きだ。
だから男の人が地声でやってくれる女の子のVTuberを作りたい。女の子が地声でやってくれる男の子のVTuberも作りたい。
ひろゆきですらやってるんだからイケるはずだとおもっている(いまVTuberの正しい表記がわからなくて調べたら真っ先にそのニュースが出てきて引いた。ほんとになんでやねん)。

なので男の娘も好きなんだけど男の娘というとエロのジャンルみたいになっていて男の娘は好きだけど男の娘のエロにはまったく興味がないのでどのように作品を発表したらいいのか考えあぐねている。BLならジェンダーレス男子とかでいいだろうけど男の娘はまた違うじゃないか。難しいよ。なんでだよ。難しいということは、好きにしたらいいんだとはおもうけれども。

Live2Dしか練習したくないけどやっぱり3Dもできなきゃ難しいだろうか。先は長い。

10時だ。本屋に行こう。

これを書くのにentry.newを使ったが本当にリダイレクトされてかがくのちからってすげーってなった。

 

午後の強制煉󠄁獄杏寿郎体験

今夜はお好み焼きpartyなのでスーパーにおからパウダーを買いにいった(休憩時間)。
もうたんぱく質のことを考えたくない。
米100gのうち、炭水化物糖質タンパク質が20%ずつ占めていてほしい。
あるいは、料理に入れたら即たんぱくみたいなシステムがほしい。
とりあえず粉ものやあんかけ系はおからパウでウッドボールでいいじゃん、とおもったので探しに行ったのだ。

道中は天気がよくてあたたかかった。最近、陽ざしがあたたかいだけでエモくなることができる。燃費がいいことこの上ない。なぜならスマホの板は無機質で冷たいしPCのモニタは電灯が反射してイライラするし増田は荒れているからだ。
外は平和だ。陽ざしはあたたかく、すれ違う他人は何を考えているかわからない。ドエモ。最高。

スーパーでは炎が流れていた。煉獄さんの歌のほう。おからパウダーを探しながらぼうっと歌詞に耳を澄ましていたらびっくりするくらい号泣してしまってびっくりした。
駅や電車の中道端で泣いている人って結構いる。公共の場で泣いている人はだいたい、つらいことがあったり不幸があったり恋人にフラれたり悲しい歌を聴いて泣いたりしているんだろう。だからわたしは公共の場で泣くのがあまり恥ずかしくない。

てかなにこれ。煉獄さんの歌じゃん。やばすぎ。

この曲をあんまり聴いたことがなかった。映画のEDで聴いたっきりだ。紅蓮華のほうはとにかくひたすら流れているのでよく聴いていたがこっちは映画以降ほんとにあんまり聴いてない。つうかあんまりにも煉獄さんの歌すぎる。引いた。
煉獄さんってなんで死んだんだろう。あそこで死ななきゃいけなかったのかな。いや、もちろん話の流れはあれが最高だし最後のほうで煉獄さんの鍔が抜かれて炭次郎が心を燃やせって言ってるの泣きすぎて息ができなくなったけど。

鬼滅って全員、眸の描きかたが違う。一枚絵なら死ぬほど瞳孔に執着してもよかろうが鬼滅は漫画でかつ週刊連載である。その状況でキャラ全員の眸を描き分けているってものすごいことだ。異常な執着だ、それって愛だ。作者の人はキャラクターたちを本当に愛してるんだろう。
その人が描いた漫画だし、煉獄さんはあそこで死んだ。
意味があったしありすぎた。
でもそれはそれとしてなんで死ななきゃいけなかったのかなあ。いや、なんでとか言ったら話が成り立たないんだけど。でも死んでほしくなかった。あれ、石田彰はなんで出てきたん? 鬼ってみんなで視界共有かなんかしてんだっけ? 強い奴の匂いがしたから会いに来たのかな。わからん。もっと言うと全員、死んでほしくなかった。でもだからこそ最終回が活きるんだろうな。

プロアマ問わず誰かの作品に触れたとき、これってなんでなんだろう? これはこういうことなんだろうか? とか考えて結論を出すとかいう失礼でダサくてド野暮なことをあんまりしたくないのだけれど、なぜなら感じたままそのままの状態が最高なので、おもわず考えてしまった。

ところでおからパウダーは全然まったく見当たらなかったので、木綿豆腐を水切りして粉に混ぜようとおもった。

辛かった現実のほうがいまSNSの10000000000倍優しい

インターネットはすでに現実と地続きなのか? ということについて考えていた。

まあ、だいぶそうだろうとはおもっていたけれど、真剣には考えていなかった。

自分にとってインターネットとはなんだ。まず現実とは、完全に乖離しているものだ。
自分にとってインターネットとは、自らの皮を剥いでなめして、そこに血で文字を書く場所だ。苦しみを吐露する場所だ。
現実はつらく、脳みその中身をぶちまけると全員が引いていく。でもインターネットにはわたしの脳みその中身をわかると言ってくれる人がいる。インターネットというのは、生きるための一縷の望みだった。


この前Twitterのことでだいぶ参っていたとき、唐突に人ごみの中で泣いた。なぜって、現実の人間は何を考えているかわからないからだ。周囲にこれだけ人がいるのに、誰一人何を考えているかわからない。他人の心がわからない世界はこんなに優しいのかとおもって泣いた、なんてすばらしいんだと感じた。誰が何を考えているかわからない世界しか視たくなくて、そのあとすぐにTwitterもやめた。厳密に言うと、知りたい人のことしか知りたくない。誰も彼もの脳みその中身は知りたくない。それは、現実において、わたしの脳の中身をぶちまけた時に全員が引いていったのと同じ文脈だ。

真剣に考えれば考えるほど現実とインターネットが、いや、SNSか。逆の世界になっている。

現実は楽だ。何も言わず押し黙り、相手に都合いい人間にはなれど嫌なことは嫌だと断り、ただそのぶん少し気をまわして仕事をすれば、力のある陽キャが面白がって、わたしの座りたい場所に座らせてくれる。そのことに、最近はもう何の我慢もいらなくなった。わたしはわたしであることを、時々ブレるがまあ確立できた。

SNSはどうだ。全くそんなことがない。

自分の皮を剥いでなめし、血で文字を書く、魂をそのまま書き写すのだ。そういうものに触れられたとき、わたしは漸く安心できる。


現実がうまくいかないから、脳みその中身をぶちまけても誰もそこに残ってはくれないから、インターネットを、SNSをやっていたのだ。文字を書き、絵を描き、漫画を描き、せめて脳みその中身を整えてそしてようやくわかってくれる人がちらほら見つかるからだから、だからインターネットをやっていたのだ。


SNSとはなんだ。
当たり障りのない人間がもてはやされ、ひとよりもちょっと優れているか劣っているかどちらかの人間がもてはやされ、ちょうどよく消費できる程度の不幸が喜ばれもてはやされる。
そのことにずっと悩んでいた。
わたしの問題だとおもった。
わたしの性根の問題だと。問題だらけで育ってきた。拙い魂のまま生きてきてしまった。だからこんなにつらいのだと。
でもちょっと待てよ。
違うんじゃないのか。
だって、ここはかつての現実だ。
脳みその中身をぶちまければぶちまけるほど他人が引いていく。自分の皮を剥いでなめし、血で文字を書いている人間なんて見渡す限りどこにもいない。
当たり障りのない人間がもてはやされ、ひとよりもちょっと優れているか劣っているかどちらかの人間がもてはやされ、ちょうどよく消費できる程度の不幸が喜ばれもてはやされる。

最悪じゃん。
そして現実より最悪なのが、すべての人間が、何を考えているか逐一わかるということだ。拙いネットスラングでなぞらえた傲慢の塊が、油の浮いた沼のそこかしこに浮かんでいる。
最悪じゃん。

tiktokには、過食嘔吐実況とかしている子たちがいて、安心する。あそこは、つらさも嬉しさも悲しさも絶望も同じ場所にまとめておいてあって同じレベルで評価がされている。過食嘔吐はBANされないのだな、大量にものを食べているだけなので。それは大食いタレントや大食いYouTuberなんかと何も変わらないからだと分かったとき、変な声が出てしまった。でもtiktokはグロOKぽいので、リストカットなんかも許されているのかもしれない。そういえば昔、なんかそんなニュース読んだな。


ああ。書けば書くほど「もしかしたらそうだったのかもしれない」ということが現実になって「ならしょうがない」に変わっていってしまう。怒りもどんどん消えてなくなってしまう。現実ならしょうがない。現実には、もうとっくにあきらめがついている。それから恋愛にもだ。この2つには30年ほどずいぶん苦しんだ。だからもう平気になっているというか落としどころを見つけている。「それならどうするか」で切り替えるものだ。無我の境地だ。
現実に、わたしは溶け込めなかった。だからどう生きるかというのをずっとずっとやってきた。Twitterが現実と地続きならば、わたしの本音を繰り出していて、受け入れられるわけがない。わたしのことばと一緒に絵を置いて、楽しく眺めてもらえるわけがない。長いこと、そのように自分を腫れ物のように扱うのは恥ずかしいことだと感じていて意識的に避けていたけれど、もう認めないとどうしようもないところまで来た。わたしはおかしいのだ。
素敵な商品が売っていたとしても、店の店員がおかしい人だったら物はほとんど売れやしないだろう。そういうの差別とかなんとか今はうるさく言われそうだけど、現実問題はそうだ。わたしの現実は、そうだ。おもったことを言えばだれもが引いていくしそんなことは考えたことがないと言われる。ごくごく僅かな「わかる」をかき集めて、今日まで生きてきたのだ。

SNSは。Twitterは、現実か。他人が、何を考えているのかわかる現実。最悪すぎて面白くなってきた。そんなものに溶けこめるわけがないだろ。ずいぶん長い間気づかなかった。でもそれはTwitterをやっていたからだ。周囲全てがお手本なのだから、自分のことが見えるわけがない。

きれいな皿に店みたいな盛り付けしないで、食べてもらえるわけがない。完。

余計なものを買わなくなった

母親から電話があってこっち、「ああもう本当は必要のない余計なものを買って散財して一瞬だけ心を慰めるとかそういうことは一切やめよう」という雷が全身を貫いた。そして余計なものを買わなくなった。



還暦近くにもなって親の施設の金が出せず、しかも祖母には年金があり施設代が足りていて、かつ妹も支援してくれているのに、小金が欲しいからと遠方で実家に頼らず生きている娘に金を無心するような人間になりたくないとおもったのだ。
多分母は年金も払ってない。この先どうするつもりなんだろう。

まあ、わたしが親の施設の金を出すことは絶対にないだろうし、娘もいないので考えなくていい心配だが。

とはいえ大病をしたときにまとまった金がないとかそういうのは厳しい。保険にも入っているが保険だって友人が死に至る病を発症しなければ入ったりしなかった。死に至る病発祥の連絡があった際、保険には入っとかなあかんで、と言われてその日に早退して保険屋に行った。保険にも入っているがまあそういう、なんか、嫌だ。いやだ。おかあさんみたいになるのは、絶対に嫌なのだ。いやすぎるのだ。もういやだ。この世で一番やだ。



金曜の夜のお菓子とかなんとなく食べたいから買っていたたこ焼きだとか買い物の際にかごに忍ばせてしまいがちなおはぎだとかを一切やめた。そうすると、お金がずっと減らず財布の中にある。そして基本的に冷蔵庫の中のものを食べるので、冷蔵庫の中がぎゅうぎゅうにならない。ラッキー。

いや、ラッキーっていうか脳みそがおかしいなとおもった。

はっきりと、絶対に、こういう理由があるからやめる、という意思がないと、やめられないことって山ほどあるんじゃないかということだ。

今回のことに限ってはもはや死活問題というか、母からの電話後、しばらく頭がおかしくなっていたし、その出来事によってもたらされたあまりのストレスに、その他こまごまとわたしに与えられていたストレスの素を一掃したりもしたし(絵のTwitterをやめたりだとか)。

こんな強い体験がないとあやふやな気持ちって押さえられないの? ポテチ食べちゃお♪の気持ちはおかあさん以外には絶対に負けるの? わたしの脳みそどうなってるの? どうかしてる。というかそういうものが簡単に売っている世の中が怖すぎる。そういう風に依存してしまうものが100円とかで売っている。どうかしてる。怖すぎる。でもわたしが食に対して執着をしすぎているというのもある。
子どものころから満足に食べ物が食べられないことがままあり、あまりにも惨めで無限に食事のことを考えていたし、かわいさあまってか祖父母はわたしたち兄弟をやたらと肥やしたし、17のときパキシルで1か月で20キロ肥ってからはどうにもならんと絶食し拒食を起こし過食嘔吐に転じて(あんまりにもテンプレートで笑ってしまうな)いわゆる摂食障害になってしまっていたし(そういえば主治医はこの件に関してノータッチだった。それ以前の問題すぎてそれどころじゃなかったんだろうな)、食に対して執着をしすぎている。食べることにも、食べないことにも。

そんなめちゃくちゃな40年弱が母親からの1本の電話で解き放たれて無になったと考えたらあの電話はそこそこ祝福だったんじゃないかと考えてはいるけれど、それはそれとして、母親には今すぐに死んでほしい。もちろん、父親にも。二人が死ぬまで生活もままならないほどに金をふんだくり続けたいし、そのための裁判をしたい。そのようにしてよい。そのように怒ってよい。両親はゴミクズ未満で、わたしはそれから生まれたが、そのようには絶対にならない。絶対にだ。